ガンジス川での沐浴を終え、すっかり冷えて震えながら温かいチャイを3杯飲んで、ホテルに帰って熱いシャワーを浴びた。
お姉ちゃんの梅酒を飲み、青家の梅しょうがペーストと自家製味噌を熱湯で溶いて飲むと芯からホッとした。
ふと身体の中に意識が向いた。
腸内細菌には悪玉菌も必要で、それぞれの役割があって全体が成り立っている。必要ない存在なんてない。それぞれのパートが違うからこそ、他と比較すること、他と同じことをすることなんて何の意味もなさないし、自然の流れに逆らっている。
わたしの臓器もそれぞれのパートをやり切ってくれているから、大調和の結果として肉体が存在できている。肺が腎臓の真似をしたり、他に憧れて自分の役割を忘れると調和が崩れてしまう。私たち人間も地球の一部であり、みんなつながっている。誰かと比べたり劣等感を持つことは自分が生きにくいだけではなく、地球全体の波動に影響するこそ、自分の存在の素晴らしさを自分で認めて“わたし“というパートを生き切ることが一人一人に与えられた役割なんだ。
誰もが人のためではなく自分のよろこびに素直になることが、そのまま地球のよろこびになる。

ああ、今めちゃくちゃ身体が軽くてクリアな感じ。元氣そのもの!
“元氣“とは、元の氣に戻すと書く。
私たちの元は、きっと歓喜のエネルギー。原点に還るための禊は、腸をきれいにすることなんだと思う。腸と潜在意識は繋がっているし、潜在意識が100%現象化したのが今目の前にある現実。腸の浄化のために力をくれるのが発酵食品。
様々な微生物達が大調和しているよろこびの響きを、食を通して身体にお供えすること。カルマ解消に必要なのは、自然界の高波動そのままの食事なのだ。
微生物達は宇宙情報と繋げてくれる力があり、質の良い発酵食品を腸に摂りこむことで、太古、原初の記憶スイッチをONにしてくれるとわたしは思っている。
私たちに与えられた最高の宝は自由意志。
だからこそ、何を食べるか選ぶことは、望む人生を生きる上で本当に本当に大切なこと。

それは、インドの食事からも感じたこと。
インドでは作り置きをしないらしい。1食約2時間かけ大量の新鮮野菜を使って調理し、その日のうちに食べ切るそう。
インドの神さまでもある牛はとても大切にされていて、のびのびと暮らしているからミルクもフレッシュで本当に美味しい。チャイやラッシー、チーズなど乳製品を毎日たくさん口にした。日本では胃がしんどくなるのに、全くもたれなかった。インドの方にとって、ミルクは“お母さんのお乳“という感覚らしい。
(抗生物質など打たれていない、本当に元氣なミルクを探すのが大変な日本からするととてもうらやましい限り)。
鶏肉は食べる直前に捌くか、生きている鶏を選んでお店で捌いてもらう(男性の仕事)。農薬を買う方が高いから基本的に野菜やフルーツも無農薬だし、作りたての食事はオージャス(元氣のもと。よろこび)を高めるとみんなが知っている。

「作りたてのご飯を食べる暇もないって、日本の人って何のために働いてるの?」
という素朴な疑問を投げかけられた時、何も返せなかった。
世界一素晴らしいお水と食材に恵まれた国なのに、一番大事な食事を作ったり食べたりする余裕もないほど働いて、疲れ果てて、身体壊してからやっと気付いて、、ああ、過去のわたしもそうだったなあ。

他にも感じたことは、インドの方には“生きがい“があるということ。
家族がとても仲良くて、一人になる時間もなければ常に助け合って生きている。日本のように何でも便利に揃っている訳じゃないけど、だからこそ日常をこなすのではなく、生きることそのものが純粋な生きがいになっているように見えた。昔の日本もきっとそうだった。本当の豊かさとは、日々の生活の味わい方で感じられるものだと思う。

この日のランチはバラナシの郷土料理、バッティチョーカ。お店の雰囲気も可愛くて、葉皿の上に次々とよそってくれるチョーカ(焼きなすや玉ねぎや唐辛子など混ぜたもの)やダールカレー、塩味のラッシーなどもめっちゃ美味しい!バッティ(発酵してないパン)は食べた後お腹の中で膨れるので、デリーに移動したあと夕食は食べずに胃腸を休めた。

翌日最終日はホテルでゆっくり朝食をいただき、素敵な紅茶SHOPでスタッフへのお土産を買ったり、洋服やスパイス、ナッツなどを買ったり、階段井戸を見に行ったり、地元の方でいっぱいのMOMO(ネパールの餃子)を食べたり、今まで歩いたインドとは全く違う一面も楽しんだ。
夜には仏陀が悟りをひらいた地“ブッダガヤ“のビハール州の伝統絵画であるマドゥバニペインティングを見に行き、菩提樹の葉の形で樹を描いた絵画を購入。
目一杯満喫できたインドの旅。どの瞬間もほんとうに素晴らしくて、また来ることを誓った。

とても良かったのは、同行してくれたTABIZUKI INDIA社長のランジャンさん自身がめっちゃ楽しんでいたところ。
日本だとお客様のために苦労や我慢してもてなすこともあるけれど、インドでは前もって準備したり計画しすぎたりすることが無いらしい。「どこ行きたい?」「何食べたい?」と、今この時のわたしの希望を大切に、昔からの友人のように接してくれて、インドの良さを伝えたい、楽しんでもらいたいという真心が伝わった。知りたいことには何でも詳しく答えてくれた。インドの神様のこと、インドの中でも言語が違うことや結婚相手は今もほとんど親が決めてそれを受け入れること、よく知らなかったカーストのことや政府の補償、制度のことも教えてもらった。
家族の繋がりが強く、一人で抱え込んだり頑張ったりすることはないそうで、迷惑をかけあうことを受け入れる「お互い様」の精神も印象深かった。多分、迷惑とも思っていないし、助け合うことが自然なことなんだと思う。
迷惑をかけないように育てられる日本の教育とはまるで逆。私たちは生きているだけで、見えるものにも見えないものにも助けられている。こうして日本で生きていられるのも、人知れず祈ってくれている方々が居てくれてるおかげでもあるし、自然界のサポートなしでは生きていくこともできないことを思い出すと、何もかもに感謝せずには居られない。誰にでも、できることがあればできないこともある。でこぼこを補い合うためにみんな違う個性を持っていて、それこそがギフトであること。できないことを苦労して頑張るのではなく、難なくできる得意なこと、よろこびを感じることをそれぞれがやっていけば、それだけで調和の循環が生まれていく。人と違うところこそが光であり、自分だけの魅力。お互いが照らし合い、その魅力を讃えあう世界にしていきたいし、きっとそっちに向かっているんだと思う。

あと一つ、自分で手放せていない概念に気が付いた。
それは、外からの情報を無意識で受け入れてしまっていたこと。
ニュースで見てきたインドの事件のせいで過度に怖がったり、治安が最悪だという思い込み。どんな国でも素晴らしい面もあれば、危険な面、見たくない面もある。
もちろん日本と同じ感覚で海外を旅すると危ないとはわかっているし、注意はしている。いや、度を越して警戒しすぎるくらいだった。
実際に旅で出会った人たち、食べたもの、見つめた景色、どれも想像とは違っていた。どこに行ってもレディファーストで本当に親切にしてもらったし、現地の方がこちらを見つめる眼差しの温かさは、日本ではなかなか感じられない温度感だった。
自然豊かで野菜は美味しいし、牛さんたちのミルクはキレが良く上品な味わいだし、何より食事は、忙しすぎる一部の日本人のようにお腹を満たすためのものではなく、踊るような喜びエナジーで溢れていた。
昔の日本の集落と同じく単独で住むことはなく、常に親戚や村など周囲の目が行き届いた中で生活しているので、持ちつ持たれつの関係があり、助け合いの精神がある。カーストの上下に関わらず共に食事をして、冗談を言い合い、触れ合い、常に笑っているのを見て、豊かさを感じた。
逆に衛生面は日本とはまるで違っていて、道路や線路はゴミだらけ。
清潔とはほど遠いトイレに行くのが嫌で、知らず知らずのうちに水を飲むのを控えてしまい、インド滞在中は顔が腫れるほど浮腫んでしまっていた。まあ、最後にはワイルドなトイレにも慣れたから次は大丈夫だと思う。
どんなことも、その場に行ってみないとわからない。実際に体感したことだけが自分の真実。情報や思い込みで、一面だけで判断するのは勿体無い。勝手に枠を作ってしまい、素直な目で見れなくなるからだ。この世は球体で出来ている。少しだけ知ってるけど、全部は知らない。そんな真新しい目でいつも世界を見ていたい。その視点を忘れたくないと思った。

インドで体験した火の護摩焚きと水の禊は陰陽統合の結びだったと感じる。
ムスビは対極にあるもの同士を統合させ、新たな創造をもたらすこと。二極を超えた視点、それこそが、カルマを超えた生き方につながるのではないか。
“これが悪だ“と決めつけて攻撃したり排除したりするのではなく、その中にある神性を呼び醒まし合い結び合う。きっと過去にいがみあった相手と今世でもまた出会うのは、その時できなかった和解やゆるし合いのため(特に身内が多いらしい)。
だけど自分の中の戦いを終えると、外の戦いもなくなっていく。
いがみあうことは、お互いがいないと実現しないからだ。
そしてムスヒとはムス(産む)ヒ(霊)で、結びつくことで神霊の力、万物を産み出す力が産まれるという意味らしい。古代タミル語に起源があるそうな。
それぞれが自分の中でムスヒを実践し、創造主に戻る。

実はわたしたちは同じことを繰り返し体験してきているのではないか。もう終わったことを再生してリピートし続けていて、自分の意思で停止すると決めてきたのではないのか。そしてそれこそが、カルマの正体なのではないか。
もう自分には必要のない不安や恐れをを全て手放したら、愛とよろこびしか残らないことをきっとみんな思い出す。自分には力がないという忘却の遊びはもう終わりにしよう。制限なんて元々なかったんだ。辛いことやしんどいことは宇宙の法則から外れている。循環して調和しているのが本質であり魂のふるさと。太古の記憶を甦らせて、肉体を持ったまま地球の大調和を体験しよう。全てが自分の中に既にある。

カルマを超えた生き方とはなにかを知りたくて旅してきたインド。
ありのままの目で世界を見て、全身で素直に感じ、“今ここ“を目一杯楽しむことが、カルマから解放された本当に自由な生き方なのではないか。
カルマ解消のプージャや護摩焚きは経験できて良かったと心から思う。でも現地に来れなくても、日々の生き方そのものとして自分で実践し、そしてみんな(ご先祖さまや神々も)に手伝ってもらえばいいんだなあ、生きることはよろこびそのもの。そう感じました。
最後まで読んでくださりありがとうございました♡

青山有紀

※youtube青山有紀の33チャンネルにて《インド旅行記(前半・後半》《アガスティアの葉》《護摩焚き》の動画も公開しております。ぜひご覧くださいね。